昔がたり 不本意ながら入学した看護学校

思い出
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お金のかからない「学校」にやっと入れることになった私の経過報告です。
ただし、60年前の。

補欠入学ながらも無事に「進学先」にありつけた私は意気洋々。

高校時代の友達は、やれ入学金が幾らだ、下宿探しが大変だった、
などと苦労話に見せかけながらもそれらの難関をクリアしたことを
自慢するのに忙しそうでした。

校舎の掲示板には生徒の氏名と進学先が掲げられました。

それは毎日付け加えられるので、生徒は誰彼の名前を指して
ため息をついたり称えるといった有様でした。

私のは?と言うと・・・、ありました、辛うじて。
掲示の末尾の部分に広い余白があり、その端っこにひっそりと。

そして本来なら書かれるはずの大学名(私の場合は校名)には
ただ「看護」とだけ書かれていたのです。

末尾の余白部分は、今後付け加えられるであろう生徒の分を見越した
スペースだったのです。

でも、誰一人として私の進学先の正式名を訪ねる友は
いませんでした。

「そりゃないでしょ、ちゃんと京大医学部付属看護学校っていう
名称があるんだよ」

心のなかでそう叫びましたが、その紙は訂正されることなく
いつの間にか撤去されて、めでたく高校を卒業。

寮生活が始まった

やった~、京都に来たよ。
京都駅から市電に乗り、「熊野神社前」で下車すると目の前に
京大病院があった。

その正門をくぐり、父親に付き添われてやって来たのが「中舎」。
私が暮らす寮です。

古くてうっと暗い木造の建物だけど、文句など言えた義理じゃない。

なにせ、日の丸お抱えでこれからの3年間、衣食住がタダなんだから。

ここで学校の概要をお話します。

1学年の定員は50名。(うち2人は男性徒だった)
就業年数は3年。

全校生は150人のはずだが、学年が上がるごとに2人くらい退学する
ようです。
これはあとで知ったのですが、落第を機にやめるんだそうです。

衣食住のすべてが無料で、ここを卒業して看護婦国家試験をパスするまで
面倒を見てくれるという、なんともありがたい学校なのに・・・。

入学式までまだ日数があったので、すでに着いていた荷物を運んで
決められた部屋に入った。

部屋の広さは畳6畳分。
そこに3人ずつ入ることになる。

新入生の私が入り口近くで、真ん中が2年生、そして3年生が奥の
窓際。これが決まりだった。

上級生2人はまだ春休み中だったので実家に帰っていて不在。

寮監と名乗る太くて小柄なおばさんが顔をのぞかせる。
父親にていねいに挨拶をしてくださり、自分が責任をもってお預かりするので
ご安心をとおっしゃった。

その次に出た言葉が「ここは男性禁制なので、用事が済めばご帰宅を」だった。
その言葉に従い、ゆっくり話もできないまま父親は帰って行った。

一人になって部屋を見回した私は、上級生たちの空間はちゃんと整っているのに
自分だけが何の用意もできていない部屋へ放り込まれた寂しさで涙が出ましたね。

こわい上級生

帰省中の先輩たちが帰ってきました。
2人とも優しそうで一安心。

まずは本棚が必要ねというワケで、卒業して出ていった人の使い古しを
どこからか取ってきてくださいました。

本棚といってもミカン箱に紙を張っただけのものでしたが、
それを置くと自分の空間を主張してくれるようでうれしかったです。

3年生は「室長」で、寮の規律を守ってつつがなく暮らせるように
気をつけねばならない立場のようでした。

なので、起床時間から始まって寮生として守るべき事柄を詳しく教えて
くれましたが、全部は一度では覚えきれません。

室長が優しかったのは最初の日だけで、翌日からは細かいことまで
注意を受けました。

足音が大きい、もっと小声で話しなさい、入り口の戸はソロリと開ける、とか。

でも、文句は言えたぎりじゃない。
衣食住のすべてが丸がかえのご身分なんだから。

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